2024年6月、欧州出張 <後編>
さて、今回から、出張の最終目的地であるPARIS編ということになる。
[Vol.11]今回から、出張の最終目的地であるPARIS編
今これを書いているのは2024年6/29(土)の19:20くらいである。
ようやくヨーロッパから帰ってきて一週間くらい経ち、時差ボケや疲れが抜けてきたように感じている。
さて、今回から、出張の最終目的地であるPARIS編ということになる。
パリは、鎌倉シャツのもう1人の創業者 でもお馴染みの貞末タミコがこよなく愛した土地でもある。
私や社員の何人かは彼女と一緒にパリに来たことがあるのだが、芸術的な街並みや文化に魅了されている様子が手に取るように感じられたのが懐かしい。
彼女はパリをこよなく愛していたが、同じフランスの南部になるニースにも心惹かれていたことを思い出す。
パリや欧州に住む上流階級の方々の避暑地は決まってニースや南仏のエリアで、それは東京近郊の人達が鎌倉や湘南に別荘を持って、バカンスに出かけることに似ている。
パリに来て思うのは、貞末タミコはフランスに大きな影響を受け、今日の鎌倉シャツのスタイルを大きく占めるフレンチ・ステイストの礎を作ったのだと思う。
創業者である貞末良雄は、主にビジネス・モデルを構築し、英国やVANに習い、由緒正しき正統なシャツ作りを始めた。そこに、貞末タミコがパリやニースでBREUER一族と会ったり、様々な文化体験をすることで、その世界観やセンス、文化を学び今日の鎌倉シャツのスタイルを作ったのである。
時代に応じて、人々のニーズとウォンツは変化し、鎌倉シャツは英国やVAN、そしてフレンチを背景に持ちながら、自由闊達にイタリアンなども取り入れてきた。
また、時代がシリアスになれば、鎌倉のZENに背景を持つような仕掛けもしてきたことから、縦横無尽、変幻自在にその姿を変えながら生き延びてきたといえる。
そして、今回改めてパリに来たのは、コロナが本格的に明けてきたことにより、堅苦しい(英国)服や、開放的な服(イタリア)という気分でもない。
今、まさにその間の中庸なテイストを持つフランス、フレンチ・スタイルが時代の半歩先を行くようなイメージを持ったからなのである。
「ソーシャル・ストリーム・イントゥ・ディレクション」はアパレル業界であれば当たり前に行われていることで、簡単に言えば「時代を読んで服を作らなければならない」ということである。
時代がシリアスな時は、削ぎ落とした無機質な服が着たくなるだろうし、そのカウンターとして、あえて開放的な服を打ち出す手法を取るブランドもあるだろう。
いずれにしても、社会的潮流から時代を読むこと、ちょっと先を読んだところから少し下がって、分かりやすく提案することなどが大切になってくる。
時代を読むセンス、それが各アパレルのセンスに直結するのであって、「有名なインフルエンサーを使った釣り商法」一本槍のブランドなどは、時代を読めていないということになってしまうかもしれないし、私も偉そうにいっているが、センスを日々磨くために様々な勉強や体験が欠かせない。(それでもセンスがないと叩かれたりすることもあるだろう)
そして、自らが1人のカスタマーとなって市場をよく見て、買い物をし、常に新しい服を着ていなければ、時代を読むことも半歩先を考えることも不可能なのである。
いずれにしても、そういった体験を重ねる修行のような意味や、前述したように時代がちょうど中庸になりつつあり、ファッション的にフレンチの時代が来ることを見越して、今回の最終目的地であるパリまではるばるやって来た、というわけなのである。
つづく
[Vol.12]まずは誰が何と言おうとPlace Vandomeだろう
今これを書いているのは、2024年6/30(日)の19:00を少し回ったところである。
前回に続いて、PARIS編ということだが、まずは誰が何と言おうとPlace Vandomeだろう。
ヴァンドーム広場といわれるこのエリアは、フランスや欧州を代表するジュエラーの聖地となっており、この特別な存在感を放つPlaceは世界中見渡しても唯一無二であり、ロンドン、ミラノ、ニューヨークにも似ている場所はどこにもない。
「Les Grand Cinq」(グラン・サンク)、直訳すると偉大なる5という意味だが、メレリオ・ディ・メレー(Mellerio dits Meller)1613年、ショーメ(CHAUMET)1780年、モーブッサン(MAUBOUSSIN)1827年、ブシュロン(BOUCHERON)1858年、ヴァンクリーフ&アーペル(Van Cleef & Arpels)1906年の五つを指している。
壮大なるジュエラーの歴史と文化の前に、立ちすくむだけなのだが、他にも、Cartier、Piaget、Breguet、Bvlgari、Chanel、Patek Philippeなど錚々(そうそう)たる世界中のトップ・ジュエラー、メゾンが集結しているのである。
ロンドンのBond street、ミラノのMonte Napleone、ニューヨークの5th Avenueなんかも、もちろん凄いのだが、Place Vandomeだけが持つ厳かな雰囲気、密集した中に密度の濃い文化的な空気を醸し出す様は、別格という他に言いようがないのである。
この異様なまでの特別な場所に、我らが日本を代表する、Comme des Garconsがあり、創業者である川久保玲さんは著書か何かでこのように話しておられた。
「パリでなくてはならなかった」
「ヴァンドーム広場でなくてはならなかった」
うーん、すごい言葉だと唸ってしまう。
鎌倉シャツの創業者である貞末良雄もニューヨークでなくてはならなかったし、偉大な先人達は常に海外を目指していたのである。
また、コロナ後の鎌倉シャツは、もう一度ニューヨークで勝負することが決まり(詳細は未定)、夢舞台はいよいよ第二章を迎える。
ちなみに、筆者は、シャツの聖地であるロンドンのジャーミン・ストリートで勝負してみたいと思っているし、そのために「何を引っ提げて乗り込んでいくか」は常に自身に問いかけている重要課題なのである。
ロンドンで鎌倉シャツが勝つには?
ただ良いシャツやネクタイを売っていてもダメかもしれない。
当然、値段で勝負は出来ないだろう。(場所として求められていない)
やはり、鎌倉という背景を持っていくしかない。
ヨーロッパの服飾や宝飾文化は果てしなく広く深いが、鎌倉やZENが持つ800年の歴史が背景にあれば決して臆することなく、かつ独自の勝負に持ち込める予感がしている。
日本から見たヨーロッパの神秘、しかし、ヨーロッパから見れば日本や鎌倉もまた神秘なのである。
このことを自覚することが、グローカルな視点を持つ第一歩なのだと、ここに断言しておきたい。
パリに出店するならRue Saint-Honoreがいいと思っている。
Rue Saint-Honoreの先にPlace Vandomeがあり、世界最古のシャツ・ショップであるCharvetがあるのだ。
つづく
[Vol.13]世界最古のシャツ・ショップである「Charvet(シャルべ)」
今これを書いているのは、2024年の7/2(火)の7:30を少し回ったところで、スターバックスには私の他に少しの人しかいない。
スターバックスやVerve Coffeeで文章を書く日常がようやく戻ってきたかな、という感じで、日本の素晴らしさを改めて感じている。
さて、かなり長編となってきた欧州出張記だが、Vol.12に引き続きパリ編となる。
今回のレポートは、世界最古のシャツ・ショップである「Charvet(シャルべ)」である。
Place Vandome※に軒を連ねる世界最高のトップ・ジュエラー達に混じって、燦々と輝きと異彩を放つ、シャツ・ショップである。(※Vol.12参照)
シャルベは、レディ・メイド(既製品)のシャツで約500ユーロ(85,000円)くらいする。(8,500円ではない)
もちろん、とてつもなく高いのだが、お客さんはひっきりなしに来店している。
しかも、我々のような観光客風の冷やかし半分のお客さんよりも、地元のレベルの高い名士やお客さんの数の方が圧倒的に多いのである。
シャルベは博物館のような外観と内装を持ちながら、人気店であり、繁盛店なのだ。
1838年創業なので、代々のお客さんが多いのは想像出来るのだが、なぜ、この世界一とも呼べる超高価格帯のお店に入店が絶えないのだろうか。
シャルベは世界に一店舗しかなく、ヴァンドーム広場にしかない、というのも人気の秘訣なのだとは思う。
そして、シャツ一枚に500ユーロは高い、高すぎると言ってもいいのだが、ヴァンドーム広場に燦々と軒を連ねるLes Grand Cinq※を中心とした世界最高峰のジュエラー群を見渡してみると、「500ユーロで買えるものは何一つない」ということに気付く。(※Vol.12参照)
そういった観点で考えると、シャルベのシャツ一枚500ユーロは良心的なのかもしれない。
人間の上半身をすっぽりと覆い隠すシャツが500ユーロで、指一本のほんの一部を覆うリングが50,000ユーロだったりするのだ。
もちろん、そんなことを考えるのは日本人でも私くらいかもしれないが、一人のビジネスマンとして、シャルベの来店客の多さに色々と考えなくてはならないのである。
そんなことは(シャルベのシャツはヴァンドーム広場においてはお手頃)、もちろん当たり前の現象なのだが、日本にいるとこのことに気付くのは難しい。
日本は良い国なので、どこに行っても、どんなに凄い店があったとしても、隣に庶民が入れる焼き鳥屋かなんかがあったりして、「エリア」という概念がない。
ロンドンでもミラノでも、お店や住んでいる場所によって、明確にエリアが区切られているのである。
ヴァンドーム広場は、ヨーロッパでも屈指の階級的なエリアでそこに集まる人達がLes Grand Cinqやシャルベを支えている。
客層がお店を創り、素晴らしいお店が顧客を創造していくという、小売業として理想の形であり、これからも永遠に続いてくと思われる無限のループに入っているのが、シャルベというシャツ・ショップなのである。
鎌倉シャツの創業者達はそういったことを全て分かった上で、メーカーズシャツ鎌倉というシャツ・ショップを作っていたことを、シャルベに来て改めて実感することが出来た。
次回は、そのシャルベがシャルベたる所以について、店内レポートをさせていただけたらと思う。
つづく
[Vol.14]世界最古のシャツ・ショップには様々な秘密がある
今これを書いているのは2024年7/17(水)の8:00を少し回ったところで、鎌倉のVerve Coffeeには私しかいない。
さて、今回は欧州出張シリーズのVol.14になるが、ヨーロッパから戻って一ヶ月経ちながらも、このシリーズを書き続けているが、次回でまとめとしたいと思う。
Vol.13に続いて、Charvet(シャルべ)の話になるが、世界最古のシャツ・ショップには様々な秘密がある。
今回のレポートは、かなりファッション的な話中心になってしまうのだが、興味のある方は是非読み進んでいただきたい。
まず、シャルべの秘密を語る前に、「イタリア・クラシコ」という文化を日本に根付かせ、定着させたと言われている故・落合正勝氏の話をしたいと思う。
数々の著書がある中で、イタリア・クラシコというイタリアの服飾文化を通じて、服装術や物の見方を指南してくれた功績は殊の外(ことのほか)大きい。
しかし、落合氏はもちろん、鎌倉シャツの創業者(※)や、VANの創始者であった故・石津謙介も同様に、「日本人が海外(西洋文化)に出る際の服装」についての問題点を指摘していた。
アパレル産業やメンズ・ウェアに関わる人の中で、落合氏の本を読んでいない人は皆無とは思うが、彼は常に基本を反復することの重要性を説いていた。
ネイビーかチャコール・グレーのスーツ、ホワイトかブルーのシャツ、ネイビーのネクタイ、ブラックかダーク・ブラウンのシューズ、それらに合わせた小物を選ぶことの重要性である。
まずは、上記全てのアイテムにおいて、自分に馴染むまで反復して着こなすことの大切さを強調していた。
服装術を学ぶ上で最も大切なのは、まず季節ごとの無地を揃え、そこから少しづつカラーや柄を取り入れていくことである。
今はSNSが発達したおかげで、簡単にカラーや柄を使った着こなしを見て参考にすることが出来るのだが、そのまま実践してしまうと大怪我をする。
落合氏が再三に渡って指摘してくれているように、基本の反復を疎かにしてファッション・アイテム(カラーや柄)に走るのはご法度なのである。
そして、基本の反復の他に落合氏が重要視していたのが、「天然素材を着ること」である。
なぜか?
それは、人間そのものが天然素材である以上、身に着ける物も天然素材でなくてはならない。
天然素材でなくては、人間の天然の肌に馴染まないという、壮大な理由付けだが、その通りであることも事実である。
シャルベの話に戻そう。
シャルベは世界最古のシャツ・ショップであり、ほぼ全てのアイテムが天然素材で構成され、ジャケットやパンツなどの展開はない。シャツやネクタイのみに絞り、せいぜい、それらに派生したアイテムしか取り扱っていないのである。
つまり、徹底してコットンとシルクだけを使っていることに他ならない。
シャツやネクタイにベストマッチする、カフリンクスやタイバーなどのメタル小物も基本的に置いていない。
落合氏が唱えているように、メタル小物は天然素材ではないから、人間の肌にマッチしないからだろうか。
当たり前だが、シャルベにはダブル・カフスのシャツがある。
彼らは何を合わせるのか?
エラスティック(ゴム)で出来た丸型の物を採用していた。
一部メタルを使ったカフリンクスもあるそうだが(現地では確認出来なかった)、メインはあくまでエラスティック製である。
次にベルトだが、これもエラスティック製の物しか置いていない。
紳士服の定番であるレザー・ベルトがなくて、エラスティックなのである。
レザーは天然素材なので、クラシコ・イタリア的にはマスト・アイテムなのだが、フランス代表のシャルベには存在してない。
シャルベのスタッフに聞いてみると、柔らかさとエレガンスを突き詰めていくと「エラスティックになるのだ」というような話をしていた。
いずれにしても、シャルベが未だに世界最古のシャツ・ショップとして威厳を保ち、他と一線を画していることがお分かりいただけると思う。
「フレンチ・クラシック」に迫った今回のブログだったが、次回欧州出張の総括をお届けしたい。
つづく
[Vol.15/最終回]15回に渡る欧州出張記も今回でまとめとしたい
今これを書いているのは、自宅の一室で、2024年7/29(月)の早朝である。
早いもので、今年も半分が過ぎてしまったし、ヨーロッパ出張から戻ってこの一ヶ月本当にあっという間だった。
第15回に渡る欧州出張記も今回でまとめとしたいと思っているのだが、服は時代をグルグルと回りながらアップデートされ、世界が動くスピードと連動していることを改めて感じている。
イタリア・コモにある世界的シャツ生地メーカーである CANCLINI社のMauroさん※ は服を見るのは東京が一番良い、というような話をしていた。
確かに、東京にない物は世界中どこにもなく、コンパクトかつスピーディーに、効率よく服を見るにはTOKYOが良いのも頷ける。
しかし、それはヨーロッパという長い服飾文化を持つ国の、業界の人だからその言葉が出てくるのであって、我々が鵜呑みにしてはいけない。
東京には全てがあるが、そこには本当の意味での文化的な洋服の背景はない。
京都には本物の日本文化が残っていて、鎌倉には禅の文化があるが、東京は金融都市としての機能や資本主義的な集合体として世界有数の都市なのである。(江戸文化含め)
鎌倉シャツとしては、創業者である 貞末良雄※ が唱え続けたように「洋服は西洋の物」であり、日本人は謙虚に学び続ける以外にこの道で成就していくことは出来ない。
そして、鎌倉シャツが取引しているヨーロッパでも屈指のファクトリー群が、その文化を支えているのであって、彼らと毎シーズン対峙するのは簡単なことではない。
これは、ヨーロッパの和服小売メーカーが京都に来て、生地などを仕入れることに近い。
日本側の我々は内心、「君達に和服が分かるのかね?」と思うに違いないのだが、ヨーロッパの彼らはそれでも、修行を重ねながら日本人と商談をするのだと思う。
日本人が、洋服の服飾文化を持ったヨーロッパの人達と対峙する時、自分を守ってくれるのは、知識や技術ではなく、アルコールでもない。
自国(日本)への深いリスペクトと理解だけが、ヨーロッパの人達と対峙する時の「道しるべ」となり、「試金石」となるのだ。
コロナ前の鎌倉シャツには、本当の意味(深く理解し根付く)で鎌倉が背景にはなく、
あったのは、ヨーロッパの服飾文化への深いリスペクトと、「いつか必ず追い付く」という競争原理に基づいたものに過ぎなかった。
コロナ以降、去年から数えて3回目の欧州出張となったわけだが、行く度に鎌倉シャツにとっての鎌倉と、日本文化への理解を深めることの重要性を感じている。
そして、鎌倉シャツとして欧州に出た時、「心から日本人として誇りを持つこと」が出来始めていることを、ここにお伝えしておきたい。
それは、コロナ前にはなかった、とてつもなく大きな、素晴らしい変化なのだ。
競争ではなく、自らの道を極めていくことの大切さに気づいたのである。
しかし、鎌倉シャツが鎌倉を完全に掴んでいると思うのは時期尚早でしかなく、日々の学びと体感、そして仕事を続けながら修行に励んで参りたいと思う。
完
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